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。高校へ行くには、ここで橋を渡らねばならない。しかし彼は反対方向に歩きだした。
道路に面して、べんてん亭という看板が出ている。小さな弁当屋だった。石神はガラス戸を開けた。
「いらっしゃいませ。おはようございます」カウンターの向こうから、石神の聞き慣れた、それでいていつも彼を新鮮な気分にさせる声が飛んできた。白い帽子をかぶった花岡靖子が笑っていた。
店内にはほかに客はいなかった。そのことが彼を一層浮き浮きさせた。
「ええと、おまかせ弁当を」
「はい、おまかせひとつ。いつもありがとうございます」
彼女が明るい声でいったが、どんな表情をしているのかは石神にはわからなかった。まともに顔を見られず、財布の中を覗き込んでいるところだったからだ。せっかく隣に住んでいるのだから、弁当の注文以外のことを語そうと思うのだが、話題が何ひとつ思い浮かばない。
代金を支払う時になってようやく、「寒いですね」といってみた。だが彼のぼそぼそと呟つぶやくような声は、後から入ってきた客のガラス戸を開ける音にかき消されてしまった。靖子の注意もそちらに移ったようだ。
弁当を手に、石神は店を出た。そして今度こそ清洲橋に向かった。彼が遠回りをする理由、それはべんてん亭にあった。
朝の通勤時間が過ぎるとべんてん亭は暇になる。しかしそれは来店客がいなくなるというだけのことだ。実際には、店の奥で昼に備えての仕込みが始まる。契約を結んでいる会社がいくつかあり、そこへは十二時までに配達しなければならない。客が来ない間は、靖子も厨房を手伝うことになる。
べんてん亭は靖子を入れて四人のスタッフで成り立っていた。料理を作るのは、経営者でもある米沢と、その妻の小代子さよこだ。配達はアルバイトの金子の仕事で、店での販売は殆ど靖子一人に任せられていた。
この仕事に就く前、靖子は錦糸町のクラブで働いていた。米沢はそこへしばしば飲みに来る客の一人だった。その店の雇われママである小代子が彼の妻だと靖子が知るのは、小代子が店を辞める直前のことだった。本人の口から聞かされたのだ。
「飲み屋のママから弁当屋の女房へ転身だってさ。人間、わかんねえもんだなあ」そんなふうに客たちは噂していた。しかし小代子によれば、弁当屋を経営するのが夫婦の長年の夢で、それを実現するために彼女も飲み屋で働いていた、ということらしい。
べんてん亭が開店すると、靖子も時々様子を見に行くようになった。店の経営は順調のようだった。手伝ってくれないか、という申し出を受けたのは、開店から丸一年が経った頃だ。何もかも夫婦だけでこなすのは、体力的にも物理的にも無理が多すぎるということだった。
「靖子だって、いつまでも水商売をやってるわけにはいかないでしょ。美里ちゃんも大きくなって、そろそろおかあさんがホステスをやってることについて、コンプレックスを持ったりしちゃうよ」大きなお世話かもしれ
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