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いい。何も見えなくても、何も聞こえなくても、誰も彼の頭脳にまでは手を出せない。そこは彼にとって無限の楽園だ。数学という鉱脈が眠っており、それをすべて掘り起こすには、一生という時間はあまりに短い。
誰かに認められる必要はないのだ、と彼は改めて思った。論文を発表し、評価されたいというはある。だがそれは数学の本質ではない。誰が最初にその山に登ったかは重要だが、それは本人だけがわかっていればいいことだ。
もっとも、現在の境地に達するには、石神にしても時間がかかった。ほんの少し前までは、生きている意味を見失いかけていた。数学しか取り柄のない自分が、その道を進まないのであれば、もはや自分に存在価値はないとさえ思った。毎日、死ぬことばかりを考えていた。自分が死んでも誰も悲しまず、困らず、それどころか、死んだことにさえ誰も気づかないのではないかと思われた。
一年前のことだ。石神は部屋で一本のロープを手にしていた。それをかける場所を探していた。アパートの部屋というのは、案外そういう場所がない。結局柱に太い釘を打った。そこへ輪にしたロープをかけ、体重をかけても平気かどうかを確認した。柱はみしりと音をたてたが、釘が曲がることも、ロープが切れることもなかった。
思い残すことなど何ひとつなかった。死ぬことに理由などない。ただ生きていく理由もないだけのことだ。
台に上がり、首をロープに通そうとしたその時、ドアのチャイムが鳴った。
運命のチャイムだった。
それを無視しなかったのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。ドアの外にいる誰かは、何か急用があって訪ねてきたのかもしれない。
ドアを開けると二人の女性が立っていた。親子のようだった。
隣に越してきた者だと母親らしき女性が挨拶した。娘も横で頭を下げてきた。二人を見た時、石神の身体を何かが貫いた。
何という奇麗な目をした母娘だろうと思った。それまで彼は、何かの美しさに見とれたり、感動したことがなかった。芸術の意味もわからなかった。だがこの瞬間、すべてを理解した。数学の問題が解かれる美しさと本質的には同じだと気づいた。
彼女たちがどんな挨拶を述べたのか、石神はろくに覚えていない。だが二人が彼を見つめる目の動き、瞬きする様子などは、今もくっきりと記憶に焼き付いている。
花岡母娘と出会ってから、石神の生活は一変した。自殺願望は消え去り、生きる喜びを得た。
二人がどこで何をしているのかを想像するだけで楽しかった。世界という座標に、靖子と美里という二つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。
日曜日は至福の時だった。窓を開けていれば、二人の話し声が聞こえてくるのだ。内容までは聞き取れない。しかし風に乗って入ってくるかすかな声は、石神にとって最高の音楽だった。
彼女たちとどうにかなろうというは全くなかった。自分が手を出してはいけないものだと思ってきた。
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